『安定か? 挑戦か?』
(2013.7.14)
先週の希望の祭典祈祷会の際に語られたみことばのメッセージが大変印象的でした。
弟子たちが航海の途中、向かい風に悩まされていた時の出来事です。
夜中の3時頃、イエス様が何と水の上を歩いて弟子たちに近づき
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と御声をかけてくださったのです。
その時ペテロがイエス様に
「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願うと、
イエス様は
「来なさい」と言われました。そごでペテロは水の上を歩くという奇蹟を体験したのです。
しかし彼はすぐに不信仰に陥って沈みそうになりました。この出来事のポイントはペテロの不信仰のように見えます。
しかし、ペテロ以外の弟子たちはどうであったか? ということが問われました。彼らは水の上を歩くこともなく、
イエス様から
「信仰の薄い人だな。」と言われることもありませんでした。だから信仰的だったのでしょうか?
彼らはただ何もせず、イエス様の恩恵に浴していただけです。
もちろん信仰は、ただ神の恵みに浸ることです。しかし、恵みに浸っていると、そこから更に
アクティブなものへとおのずと駆り立てられていくのです。改めて問われます。自分は安定志向か?
それとも、新たなことへ挑む信仰と勇気があるか? ということを。
2/11 祈ること、祈られることの恵み
(2013.6.9)
先日、祈りの聖会において、インドネシアで祈りの塔の運動を推進している牧師夫妻のメッセージと証しを伺いました。
祈りの塔とは、24時間祈ることができる場所を用意し、そこでいつも誰かが祈っているという、絶え間なく祈るムーブメントです。
神様が私たちのために眠ることもなくまどろむこともなく24時間守り続けていてくださることは言うまでもありませんが、
私たちもまた24時間絶え間なく祈り続けることの重要性が語られました。
なぜならば、私たちを神から引き離そうとするサタンの勢力が私たちを覆っているからです。
もちろん、
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」【ローマ8:31】 とあるように、神様の守りは絶対的なものです。
問題は私たち人間の弱さと、その弱さにつけ込んでくるサタンの勢力にあります。
私たちは神様の前に罪を赦された者ですが、完全な者ではありません。
ですから、祈りを通して神様を見上げるか、思い煩いで悶々とするか、この世の他の何かに心を奪われるか、ということの繰り返しです。
祈りは私たちが神様に向く恵みの手段です。私が誰かのために祈ること、誰かが私のために祈ってくれていることもまた恵みです。
祈ること、祈られることの恵みを見直してみませんか?
命懸け?!
(2013.6.2)
“命懸け”ということばがあります。「生命を失っても構わないというさま。
死ぬ覚悟ですること。」という意味です。(広辞苑より)
私たちの日常生活の中でもしばしば聞くことばです。
ある人は、自分の目標を達成するために、自己実現のためにいのちを懸けるでしょう。
しかし他方では、尊い価値ある職務にいのちを懸ける人たちもいます。いわゆる“殉職”と言われるものです。
さて、私たちは何にいのちを懸けるでしょうか?
ここで、キリスト教会の先輩方に思いを向けてみましょう。
初代教会の殉教者ステパノを筆頭にして多くの方々がいのち懸けで信仰を守り通しました。
それは、他の誰よりも、主イエス・キリスト様がまず私たち一人一人を愛するがゆえに十字架においてご自身のいのちをお捨てになられたという事実のゆえです。
イエス様は、ご自身のいのちを懸けるほどに私たち一人一人を価値ある尊い存在としていてくださったからです。
改めて思い巡らしてみましょう。私は何にいのちを懸けるのか?
私は与えられたいのちをいかに生きるのか?
そもそも私のいのち、私の人生はどなたのものなのか?
永遠への備えとは何なのか?...